無可有の国

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 この国の住人はすべてカロリーナ女王陛下の犬だ。彼女の命令で剣を振るうことを厭わないし、彼女に逆らう者は粛清される。この国はそれで正常に動いていたし、生まれからずっとこの国で生きてきたイクセルにはそれがもう身に染み付いていた。陛下はこの国の男にとって女神のような存在であり、彼女に服従することは男達の自尊心が傷つけられることではないのだ。むしろ彼女に対する服従は喜びだった。誰もが女王陛下の僕である。それがこの国の法律なのだ。

 そしてこの国にはもうひとつ法律がある。魔法を使うことの出来る者が権力を手に入れるという法律だ。家名や血筋は問わない。女王陛下が魔法を扱える者を側にと望んだからだ。黒でも白でも灰でも構わない。ただ魔法を使えればそれで良いのだ。だからこの国では剣を持つ者の地位が低い。イクセルはそれを不満に思ったことはなかった。すべて女王陛下の望まれたことだから、それに従うまでのことだった。

 それに、イクセルの兄弟は全員魔法が使えない。イクセルは三人男兄弟の末。両親も魔法は使えないのだから、突然イクセルに魔法の力が振って湧いてくるわけがない。その分イクセルは剣の腕に自分のすべてをかけていた。女王陛下のために剣を振るう日を待ち望んで。

 イクセルはもう騎士として二年前に叙任されていた。しかし隣国との関係は良好、別大陸でイシュラムという国が不穏な動きをしているという噂はあったものの、友好国でも貿易国でもないこの国にまで被害が及ぶことはまずないだろうと言われていた。そのためイクセルが女王陛下のために騎士として剣を振るったことは未だなかった。だが女王陛下の治める時代に争いがないことは素直に喜ばしいことだし、戦いがないからと言ってイクセルが剣の腕に磨きをかける鍛錬を休むことはなかった。兄達はそんなイクセルを真面目すぎる堅物だと笑うが、イクセルは騎士として叙任された時、この剣を女王陛下に捧げることを誓っていた。退屈な長い鍛錬の日々にも迷いはない。

 この剣は女王陛下の敵を斬るためにある。

いや、剣だけではない。この腕も、足も、イクセルの体のすべて、精神の奥深くまでが彼女のものだ。一度だけ、騎士叙任の式に祝いの言葉を述べるために、遠くから姿を眺めた女性のためだけに、イクセルは生きていた。

 そしてその日も雨の降り出しそうな空の下、騎士団で剣の鍛錬に励んでいたイクセルはとうとう降り出した雨に鍛錬の中止を余儀なくされた。体を拭いて自室へ戻ろうとするイクセルに、家からの呼び出しがかかったのはそれが騎士になって初めてのことだった。

 急ぎ家に帰ると、そこには二人の兄も呼び出されていた。イクセルの家は騎士の家としては地位のある方だが、この国のヒエラルキーに従って、魔法使いを出した家には適わなかった。父は常々それを苦々しく思っていたが、そこは女王陛下の決められたこと。黙ってこの家よりも歴史の浅い、成り上がりの者達が地位を得ていく姿をずっと見てきた。そんな父が、息子三人を呼び寄せ、さらに自分の管轄する騎士達を屋敷の前に待機させると、冷然とこう言い放った。

「女王陛下のご命令である。反逆者エーベルハルトを捕らえよ。それ以外の血縁者、また召使達はすべて殺せ」

 その父の言葉に動揺したのは、二人の兄達だけだった。父ダーウィドの言った反逆者エーベルハイトとは、父の弟、つまりイクセルや兄達の叔父にあたる人物だった。彼は兄ダーウィドと違い、魔法の才能を早くから発揮し、黒の魔術師となって出世の階段を登っていった。兄であるダーウィドを置いて。

 実の弟に追い越され、下に見られるようになったイクセルの父がどんなにエーベルハイトを憎んでいたか、それはイクセルの理解できるところではない。ただダーウィドは待っていたのだ。唇をかみ締めながら、こうして弟のエーベルハイトが地に落ちる日を。

 もしかしたら、反逆の罪とは兄であるダーウィドが仕組んだ罠だったのかもしれない。それを疑う心はイクセルにもあったが、最終的には女王陛下が決めたことだった。イクセルは逃げられないように夜中エーベルハイトの家を襲撃するという父の言葉に、黙って従った。

 エーベルハイトには妻と、子どもが三人いた。イクセルは一度だけ叔父の屋敷を訪れたことがあったが、その時の父は実の兄だというのに、始終弟のエーベルハイトに頭を下げていた。その時にはすでにエーベルハイトは女王陛下の寵愛を受けていたのだから、騎士であるダーウィドよりもずっと高い地位にいたのだ。当然その子ども達も、単にイクセルの従兄弟というだけの立場ではない。イクセルは従兄弟たちよりもずっと格下の存在だったのだ。

 イクセルは屋敷の中に入って従兄弟たちと遊ぶことも許されず、広い庭でただ父が出てくるのを待っていた。それは十か、それよりも幼い頃のことだった。イクセルは退屈な時間を、広い庭を歩き回ることで費やそうとした。庭には珍しい薬草や花が咲いていたが、イクセルは花を眺めるよりも木に登って街を見下ろすことの方が魅力的に思えた。だが残念なことに、エーベルハイトの屋敷にはイクセルが登れるような足がかりのある木は生えていなかったのだ。結局ただぶらぶらと庭を歩いていたイクセルは、気づくと召使達の寝泊りする屋敷の隅まで来ていた。

 そこでイクセルはひとりの少女に出会った。召使のような服を着て、黒い豊かに波打った髪を背に流している少女。大きな瞳は印象的な蒼で、肌は小麦色にやけていた。イクセルと同じくらいの年齢の少女は、まだ顔にそばかすを残した幼い顔をしていた。

「メルタ様」

 少女は召使のひとりにそう呼ばれて、イクセルに小さく手を振ると立ち去ってしまった。少女が建物の中に消えると、代わりに男の召使が姿を現してイクセルを見つけた。彼はイクセルが屋敷の中で迷子になったのだと勘違いして、イクセルを屋敷の庭へと連れて行ってくれた。

 後で知ったことだが、メルタという少女はエーベルハイトの四人目の子どもの名前だった。彼女は生まれてすぐの高熱で声を失った。白、黒、灰の魔法はどれもそれぞれの神を賛美する言葉で発動する。声を発することができないメルタはエーベルハイトから早々に見放されたのだ。エーベルハイトはメルタのことを自分の子供としては認めず、かといって家の外に放り出しては家の恥となるということで、彼女の世話を召使達に任せていたのだった。

 彼女は今でもあの家にいるのだろうか。

夜襲の準備をしていたイクセルは、不意に過去の思い出に頭を支配され、そんなことを考えた。女王陛下の命令はエーベルハイトだけを捕らえ、その他の者は皆殺しにしろというものだった。父の説明が正しければ、エーベルハイトは女王陛下の信頼を裏切り、自分の地位と魔法の力をつかって密かにイシュラムと連絡を取り合っていたというのだ。イシュラムと言えばきな臭いと噂される第二大陸フォーカスの帝国。この国を売ろうとしていたのだと判断されても言い訳できない危険な相手だった。しかしそれは多分にエーベルハイトひとりが計画していたことだろう。妻や息子達はどうか分からないが、召使や父親に見放された少女が知っていることとは思えなかった。

 ここに来て何を迷う?

イクセルは女王陛下に捧げると誓った剣を握り締めてそう自問した。

 私のすべては陛下に捧げた。その陛下のご命令なら、喜んで人を斬る。

イクセルは目を閉じた。そして剣に口付ける。頭の中から、従妹である少女の幻影を消し去ると、イクセルは立ち上がった。夜襲の時刻だった。

 標的はすべて塀の中にいた。時刻は深夜。塀の外には弓を携えた騎士たちが並び、他の騎士たちは帯剣して皆暗色のマントを羽織っていた。そして帯剣した者達はダーウィドを先頭に屋敷の門の前に並ぶ。勿論イクセルも二人の兄もその中に入っていた。

「塀を乗り越えて逃げようとする者は打ち落とせ。魔法を使わせるな。速やかに喉を切り裂くのだ。女王陛下の信頼を裏切った者に容赦はいらない。粛清を! そしてカロリーナ女王陛下に栄光を!」

 ダーウィドが屋敷の中まで響かぬように、けれど最大限の大きさで女王を称えた。すると、他の騎士たちも迷いなくそれに続いた。

「女王陛下に栄光を!」


 一人の騎士が塀の中に侵入して門を開いた。すると騎士達は剣を抜いて、足音を潜ませて屋敷へと駆け出す。イクセルはその列の先頭付近を走っていた。屋敷の扉は簡単に開いた。ダーウィドが緊急の用向きと偽って、召使に中から扉を開けさせたのだ。少し扉が開かれると、ダーウィドがその隙間から中に飛び込んで、扉を開けた召使を一突きで殺した。イクセルや兄達はすぐに散開して、それぞれに割り振られた標的へ向かって走った。エーベルハイトの三人の息子たちは、イクセルと兄二人が片付けることになっていたのだ。それはダーウィドなりの弟に対する復讐だったのだろう。ダーウィド自身は、エーベルハイトの妻を殺しに行った。

 イクセルは階段を上って、事前に知らされていた三男の部屋へと向かっていた。途中で見回りをしていた召使を一人、胸を突いて殺した。そして三男の部屋に忍び込む。エーベルハイトの息子たちは三人とも父と同じ黒の魔術師だったので、イクセルは父の言ったとおり、魔法を使わせないためにもその喉を狙うつもりだった。

 女王陛下の敵、イクセルの標的は警戒心の欠片もなくベッドに横たわっていた。成長してからは遠目にしか眺めたことのない従兄弟の顔を見ても、イクセルには何の感情も浮かばなかった。そしてまだ結婚していないはずの従兄の隣に、裸の女性が寄り添って眠っていても、彼女だけを逃がそうという思いはなかった。エーベルハイト以外は皆殺しにしろ。それが女王陛下の命令だった。

 イクセルはまずベッドに大の字になって高いびきをかいている従兄の喉を、上から剣で突いた。一瞬だけ蛙を潰したような声が従兄の口から漏れ、従兄は目を剥いて体を緊張させたが、すぐに弛緩した。あっけない終わりだった。従兄が一瞬で息絶えると、その側に寄って眠っていた女が目を覚ました。金色の髪が血に汚れ、そしてベッド脇に剣を振り上げて立つイクセルを見ると、女は逃げ出す前に叫ぼうとした。イクセルは剣を持っていない手で女の口を塞ぎ、その裸の腹に剣を突き立てた。これで、実際に裏切りとは関係のない者を二人殺した、とイクセルは思った。

 それがどうした? 疑問は抱くな。私は女王陛下の僕だ。

イクセルは死体をそのままにして、従兄の部屋から出た。後は逃げ出そうとする召使たちを始末するだけだ。そう思ったイクセルは、自然とその足をかつてあの少女と出会った屋敷の隅へと向けていた。

 剣についた血をマントで拭う。外では殺される者の悲鳴と、女王を称えて人を殺す騎士達の声が響いていた。イクセルは抜き身の剣のまま、廊下を西に向かって歩いた。そして階段を下りる。一階へ戻ってくると、庭の風景はかつて迷い込んだその場所だ。

 まだここまで襲撃しに来た騎士はいないようだった。中央の喧騒もここでは薄い。ここで眠っている召使達はまだ屋敷内の変異に気づいていないのかもしれなかった。イクセルは物音を立てないようにして、古びた扉のひとつを開いて中に入った。そこは丁度寝室で、狭い場所に十個以上の狭いベッドが置かれていた。その中で人の形に盛り上がっているベッドはひとつしかない。エーベルハイトは夜中まで召使をこき使う男だったのだろう。

 イクセルはそのひとつのベッドに近づいた。眠っているのはひとりだけかと思い枕元を覗くと、枕は二つ。そして頭も二つあった。ひとつは白髪の混じった老女の髪。そしてひとつは艶やかに波打った黒髪。

 メルタ……。

かすかな寝息を立てている女性は、もうそばかす顔の少女ではなかった。健康的に日焼けした肌と、髪と同じ豊かな長い睫。それは叙任式に姿を見せた女王カロリーナよりはずっと地味で、飾り気のない顔だった。しかしイクセルは剣を振り上げることなく、一歩後ろによろけた。今まで胸の中にあった疑問が、三人の人間を殺した後にようやく膨れ上がった。

 何故彼女を殺さなくてはいけない?

メルタは喋ることができない。最後の叫びを上げることも、命乞いをすることも、何も知らないのだと弁明することもできない。そして彼女は女王よりもずっと前にエーベルハイトの裏切りを受けていたのだ。外に出ることもできず、こうして屋敷の中で飼い殺されて生きてきた。

 それなのに。彼女はこんなにも眩しい。

イクセルは愕然として、自分の手を見下ろした。剣を握っていた。それも、まだ血の曇りが残る剣を。女王陛下のためにと振り下ろした剣は、今は曇ってイクセルの顔さえ映さない。

「誰です?」

 イクセルはその呼びかけにはっとなった。ベッドの上では、白髪交じりの老女が腕の中のメルタを庇うようにして上半身を起こし、イクセルを睨みつけていた。その表情には怯えも混じっている。イクセルが剣を持っているからだろう。殺すなら今のうちだ、とイクセルの中で叫んだ者がいた。騒ぎ出す前に殺さなければ、ひとりには逃げられて面倒なことになる。そう思ったが、イクセルの口から出てきたのは、彼も驚愕するような内容だった。

「落ち着いて聞いて下さい。今この屋敷は襲撃を受けています」

 そしてそう言うと、イクセルは剣を鞘にしまった。標的を前にして、イクセルは戦意を喪失したのだ。老女の腕の中では、メルタも人声を聞いて目を覚ましていた。その瞳が、怯えと好奇心をない交ぜにしてイクセルを見ていた。

「貴方は……イクセル様ですか?」

 老女がそう言った。イクセルは内心で動揺した。イクセルの父ダーウィドとメルタの父エーベルハイトが不仲なことは、両方の家の召使達が知るところだ。襲撃しているのがそのダーウィドだと、この場で知られたくなかった。

「そうです。この屋敷にいる者は皆殺しにされます。どこかに逃げなければ」

 すでに自分も三人殺しているというのに、イクセルはいかにも助けに来たような自分の言葉に喉を締め付けられる思いだった。だがイクセルの中の罪悪感に、老女は気づかなかったようだ。突然現れたイクセルのことを、この事態を知らせに来てくれた善意の使者と勘違いしてくれたようだった。

「メルタ様、イクセル様です。貴女の……従兄様ですよ」

 老女が腕の中でじっとイクセルを見ているメルタにそう呼びかけた。エーベルハイトに見捨てられたメルタとイクセルの関係を従兄弟というべきか、老女は少し迷ったようだが、結局事実をメルタに教えた。メルタは老女の言葉を聞くとイクセルから視線を外して、老女の手をとるとそこに指先で何かを書いた。

「エーベルハイト様はどうなされたかと……」

 老女が口の利けないメルタに代わってイクセルにそう尋ねた。どうやら、メルタとの会話は手の平に彼女が字を書くことで成立しているらしい。

「残念ながら、捕虜となられました。夫人とご子息方は殺されました」

 イクセルは内心の動揺を隠し、そう答えた。するとメルタの顔が歪む。見捨てられたといっても血の繋がった家族。蒼い瞳は悲しみに沈んだ。そして彼女は俯きながら再び老女の手を取った。

「尊公様はどうしてここにいるのか、とお尋ねです」

 イクセルの体が震えた。彼女は老女ほど単純にイクセルを信用したわけではなかったのだ。彼女の若い目になら、イクセルの服が血に濡れていることも分かるのかもしれない。

「それは……」

 ここに来るまでに襲撃者を撃退したのだ、とそこまでの嘘をつくことはできなかった。答えようとするイクセルをメルタはじっと見ている。イクセルは喘いだ。女王陛下のため。それなら何をしても許されると思っていた一時前までの自分が、酷く愚かに思えた。女王陛下の命であろうが、彼女はきっと兄を殺したイクセルを許さないだろう。その蒼い瞳が、怒りと恨みを持って自分に向けられることを想像するとイクセルは益々何もいえなくなった。

 そうしてイクセルが言葉に詰まっている間に、外では屋敷に火を放てという声が響いていた。生きている者は炎で追い立てようということなのだろう。このままここにいれば、造りの悪いこの部屋はすぐに炎に巻かれてしまう。

「もう時間がない。私は貴女だけでも助けたい。どうか事情は後で」

 後で本当に真実を話せるかどうか、イクセルには自信がなかった。ただメルタをここで死なせたくないという想いだけは真実だった。父や兄達を裏切り、女王陛下の命に背いても、イクセルはメルタを救いたかった。

「メルタ様、どうかイクセル様とお逃げ下さい。イクセル様、こちらへ」

 老女はイクセルの言葉を信じて、粗末な寝巻き姿のメルタを立たせると、隣にある壁際のベッドを横にずらした。

「これは……」

 老女がさらに床に置かれた板をはがすと、そこには地下へ伸びる土作りの階段が現れた。暗いが、風が吹いているのでどこか外に繋がっているのだということが分かった。

「ある召使がエーベルハイト様の仕打ちに耐えかねて作った抜け道です。どこに出るかは分かりません。でも、もうここしか逃げ道はございません」
「……貴方達は何故この道を使って逃げなかったのです?」

 エーベルハイトの召使に対する扱いが酷かったというのなら、この道を使って逃げることができたはずだ。こうして逃げ道は見つかっていないのだから、その気になればいつでも抜け出せたはずなのだ。その問いに、老女はそっと微笑んだ。

「私達にはメルタ様がいました。こんなこと、これが私の最後とお許しください。……私達にとってこの国の王はカロリーナ様ではございませんでした。何もかもが、メルタ様のため。この方は私達の太陽であり、月であり、世界そのものでした」

 この国の王、と老女は言うが、今のイクセルには分かる気がしていた。老女の国はこの屋敷の中だけのこと。ここが彼女の国で、その王はメルタだったのだ。実の父親に虐げられながら、その声以外は健康的に育った娘。そして彼女に出会った幼い頃、あの瞬間の出会いで、イクセルも彼女の作る国に魅せられていた。カロリーナ女王の作る、大きすぎるこの国よりもずっと小さく、けれど温かい国に。

 老女は布団のシーツを剥ぎ取り、メルタに頭から被せた。メルタは老女の骨と皮だけの腕に縋って、口を動かした。老女は短い言葉を読み取って、首を横に振る。

「……いいえ、メルタ様。私はご一緒できません。イクセル様、尊公方が行かれたら、私がこの入り口を塞ぎます。どうか、メルタ様だけでもお守り下さい」

 メルタは老女の言葉に首を振り泣き出したが、その時大量の矢が放たれる音が響き、薄い天井に数本の火矢が突き刺さった。

「さぁ、お早く!」

 老女が嫌がるメルタの背を押した。そしてその灰色の瞳で、イクセルに目礼した。イクセルは老女も一緒に連れて行くことを考えたが、この道が見つかれば父はすぐに追ってくるだろう。見放されたとはいえ、メルタはエーベルハイトの娘だ。今回の襲撃で、父がエーベルハイトの血縁を根絶やしにしようとしていることは明らかだった。彼女を連れて、さらにこの老女を連れては逃げ切れない。そして確かに、追っ手がつくのを少しでも遅らせるためには、誰かがこの道を塞いでしまわなくてはいけなかった。

 迷ったイクセルに、老女は自分に縋り付くメルタを突き飛ばした。メルタの細い体は老女の渾身の力でもってイクセルの腕に収まった。そして行ってくれと口を動かした老女の瞳には涙が。

 イクセルはそれでようやく決心した。

「失礼します、従妹殿!」

 イクセルは背の低いメルタをシーツごと抱え込むと、地下へと続く階段を下りた。きっと老女はそんなイクセルとメルタを見送っていたのだろう。メルタはイクセルの肩に上半身を乗り上げて、老女へ向かって手を伸ばした。イクセルは声もなく涙するメルタの、どうにかして老女の元へ戻ろうとする体を押さえつけ、天井の低い地下道を必死で走った。


 ひたすら走って、ようやく地下道から外へ抜ける頃には、メルタはイクセルの体にしっかりとしがみ付き、その蒼い瞳から涙を流し続けていた。その涙の原因は、イクセルにもある。だからイクセルは、彼女を慰める言葉だけは口にできなかった。

「……この国を出ましょう。いずれ貴女がいなくなったことも、私が消えたことも明らかになります」

 地下道が終わった先は、エーベルハイトの屋敷の裏手にある森だった。走った割には、屋敷からはそう遠くない。捜索されればすぐに見つかってしまうだろう。イクセルは炎上する屋敷を、涙を懸命に拭いながら眺めているメルタの肩にそっと手を添えた。

 メルタはイクセルの手を拒まなかった。炎上する屋敷の天井が落ちる大きな音を聞くと、メルタは小さな手でイクセルの手を取った。その柔らかな手に、イクセルは思わず身をすくませる。彼女の兄を殺した。その手を、彼女は何も知らずに握っている。そう思うと、イクセルの手は彼女の手から逃れようと無意識に動いた。

 しかしメルタは強固にイクセルの手を離さなかった。片手でイクセルの手首を握り、拳を作っているイクセルの指を、もう片方の手で忍耐強く広げると、彼女は人差し指でイクセルの手の平に文字を書いた。

『私は声が出ません。必ず貴公の足手まといになります。それに貴公にはお父様もお母様も、お兄様もいらっしゃる』

 ゆっくりと綴られた言葉に、イクセルは考えた。つまり自分を置いて、何もなかったかのように家族の元に戻ってくれと言うのだろう。驚いたイクセルが彼女を見ると、メルタは涙で目元を赤くしながらも毅然とした瞳でイクセルを見返した。

「一緒に行かせて下さい。私にはもう、女王陛下の栄光を称えることができない」

 イクセルは自然にそう返していた。メルタの、それでも何かを綴ろうとする手を握り返して止め、イクセルは首を振った。

「従妹殿、貴女のせいではありません。私はずっと、心の何処かでこの国に疑問を覚えていたんです」

 そう、イクセルは女王陛下に剣を捧げた自分に、ずっと疑問を持っていたのだ。そして父と同じように、剣が魔法に劣ると考えられているこの国の法に憤っていたのだと思う。

 この身はひとつ。私が振るえる剣もひとつだけだ。

けれどそれで守れるものが女王陛下やこの国ではなく、目の前に毅然とした瞳で立っている女性ひとりであったとしても、それで十分ではないだろうか。

 欺瞞だと分かっている。彼女をこんな目に合わせたのは自分だ。

それでも彼女を守るとあの老女と約束した。だからせめて、メルタに自分の手がいらなくなるまでは、側にいることを許して欲しいと思った。真実を告げる時を、どうか待って欲しいと思ったのだ。

 メルタは真剣な顔で考え込んで、また遠くで天井の燃え落ちる音がするとイクセルの手をぎゅっと握り返してきた。そしてぺこりとイクセルに頭を下げる。よろしくお願いします、とメルタが言ったような気がした。イクセルは胸に湧きおこる幸福感を罪だと思いながらも、夜のうちにできるだけ遠くへ行こうとメルタの手をとって歩き出した。その時この国に生まれ育って初めて、イクセルは自分が微笑んだような気がしていた。

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